僕は日本の一流大学卒でもなく、英語も苦手だったが大きな夢があった。

それは、『アメリカで博士号がとりたい』という夢だった。

英語力ゼロ・留学の知識ゼロからのスタート。

僕以外は実現できないと思っていた夢だけを抱いて渡米...。

そして、『ダイス博士、フードの授与は担当教授のフレドリック博士より』、この瞬間僕の夢は実現し、気づいてみれば博士になっていた。

ダイス博士とはどんな人?

・45歳、牡羊座、かかあ天下とからっ風で有名な上州群馬県出身
・お酒飲むこと、子供と遊ぶことが大好きなアラフィフ男子

ダイス博士の略歴

東海大学および同大学院(修士課程)を卒業後、渡米

大学院(修士課程)在学当時からの夢が『博士号はアメリカで』だったが、周りの教授陣からの評価では『お前なんて絶対無理』と言われていた。

しかし、挑戦したいと思う意欲だけを胸に、いざアメリカへ出発した。

いきなり大学院(博士課程)には行かずに、専門課程から大学に編入(州立モンタナ大学入学)

アメリカでの研究経験を得るのと専攻をより生命科学的な分野に変更したいこともあり、大学の専門課程、つまり大学3年生から編入。

行きついた先は、州立モンタナ大学。

やる気満々で始めてはみたが...。現実は思ったより厳しかった。

予想通り、いきなり言葉の壁にぶつかる。

受講した最初のクラスで、教授から『君、どうせこのクラスついていけないだろうから、やめなさい』と痛烈な戦力外通告のコメントを浴びせられた。

悲しいかな、これが現実。

しかし、それがどんなに厳しくても、ここで引き返す道など残ってるはずもなく、とにかくできる事はがむしゃらにやってみた。

・授業をすべて録音し、それをもとに復習。
・勉強できそうなクラスメートにスタディーグループを組んでもらい一緒に勉強。

とにかく生き残るために何でもやった。

寝る時間以外は、図書館やスチューデントセンターと呼ばれるラウンジのどちらかで勉強。

そんながむしゃらに勉強する毎日を過ごし、約2年の時が流れた。

そして卒業、気づいてみたら...。(州立モンタナ大学微生物学部卒業)

僕もついにアメリカでは初、人生では二度目の大学を卒業することになった。

気づいてみれば、学科内最優秀賞のおまけつき。

がむしゃらに突き進んだことへの結果。

初めてアメリカで味わった、物事に挑戦する厳しさと達成する喜びを実感することができた賞だった。

そして、卒業後は州立アイオワ大学医学部博士課程への入学が決まっていた。

やっと、やっとここまでたどり着いた。そう、スタートラインに。

いざ、アイオワへ (州立アイオワ大学医学部博士課程入学)

初めの2年間のコースワーク

アメリカでの博士課程であるPh.Dコースでは、初めの2年間はPh.D studentとして過ごし、コースワークと呼ばれるクラスの授業を取りつつ、研究活動を行う。

このコースワークと研究活動において成績不振となった場合、『ハイさよなら』となる。

コースワークにおける授業の試験は、暗記試験ではなく、与えられた事象から論理的に仮説を立て、それをいかに証明するかの考察力が求められる試験であった。

試験自体は夜の6-7時くらいから始まり、試験時間は3‐4時間。

当然ながら、成績を維持するための勉強と研究とのダブルワークで、ヒーヒー言いながら取り組んだ。

毎日がストレスで胃に穴が開きそうな生活。

精神的に追い込まれると、感情が『現状のヤバさに対する恐怖 → ぶつけるところのない怒り → ダメだったらどうしようという不安』のサイクルをエンドレスで行き来する。

そんな生活に耐え忍び、どうにかPh.Dコースの初めの2年間を乗り切った。

今思い出してもこんな生活よくできてたと思うほど、あの頃はタフだった。

Comprehensive Exam

PH.Dコースにて、2年間のコースワークを乗り切るとComprehensive Examと呼ばれる試験がやってくる。

このComprehensive Examをパスした者だけが、Ph.D StudentからPh.D Candidateとなり本格的に博士研究に取り組める。

Comprehensive Examでは、自分で研究アイデアを立案し、研究計画を立て、その研究計画を教授陣の前で発表し、教授陣との質疑応答をおこない、所要時間は3-4時間。

意気揚々と臨んだ結果...不合格。

この時の落胆は今でも鮮明に覚えている。

不合格の後、各教授陣から『こんな出来でよく今までやってきたな』『Ph.Dになる資格が本当にあるのか疑問になる』等散々なコメントが帰ってきた。

涙も出ないほどの悲しみと自己否定感を味わった。

2回目のComprehensive Exam

このComprehensive Exam、僕の学科では2回チャンスが与えられていた。

2回目でも不合格の場合は、『ハイさよなら』となる。

1回目が不合格だからといって、ここで引き返す道など残ってるはずはない。オメオメと尻尾を巻いて日本には帰れない。やるしかない。

『自分は、ダメになるかもという恐怖で自分からレースを降りることは絶対にしない。でも、誰かにもうレースから降りなさい、君はもうこのレースには出る資格がないと言われたら、胸を張って降りよう』と決意した。

そこから半年後にある2回目のComprehensive Examまでの間、研究計画を立てては同期のクラスメートやポスドクの方々にコメントをもらい、不明点をなくし、完成度を徹底的に上げた。

半年間、睡眠時間は1日2-3時間くらいだったと記憶している。

そして臨んだ2回目のComprehensive Exam。これでダメならジエンド。

結果は...合格。晴れてPh.D Candidateになれた。

僕のために、忙しい合間を縫って協力してくれた人達からのバックアップなしでは成しえなかった結果。

これほど時間が濃くなったことがあっただろうか、まさに遥かなる道のりだった。

そして、博士号(州立アイオワ大学医学部薬理学科卒業 Ph.D in Pharmacology)

その後の約4年間は博士研究に没頭した。

教授と顔を突き合わせ、自分の教授が詳しくない研究手法等に関しては、話したこともないポスドクや他の教授にもコンタクトとり、教えてもらった。

恥ずかしいとか、そういうのは苦手だとか言ってる場合ではなかった。

僕は超ビビり屋なので、いつも内心ビクビクしながらではあったが、前に進むことしか考えていなかった。

この研究室で自分はいったいどれくらいの時間を過ごしたのだろうか。

たくさんの人に支えられ、助けてもらい遂にこぎつけた最終関門。Ph.D Thesis Defence。

1時間の研究発表、その後の質疑応答の後、論文審査委員会の5人の教授の前での質疑応答2-3時間。

アメリカでの挑戦は、難しい関門をクリアすることの連続だった。

これまで、いくつもの関門をギリギリでクリアし、また更に難しい関門にぶつかり、がむしゃらに挑む。

でも、そこに今の自分があり、そこに今の自分の存在意義があり、そこに未来の自分への成長がある。

僕がアメリカで学ばせてもらった思いが最後の最終関門で頭をよぎった。

最終関門も終了を迎えた。

審査のため部屋の外で待った。結果を聞く前だったが、心の中は晴れやかだった.....。

そして、『おめでとう、ダイス博士』。

この瞬間に頭の中でアメリカ生活が走馬灯のように流れ、すべての努力が報われた。

帰国後

アメリカから帰国後、外資系ライフサイエンス会社にてグローバル治験チームジャパンリージョナル担当、製薬系分析研究会社にて分析研究グループリーダーを経て、僕の最後の夢に挑戦するため退社。 

現在、最後の夢『起業』で奮闘中。

『この夢が叶うかって?』

『叶うに決まってるさ。』

『信は力なり』

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